哀帝(あいてい)は前漢第12代皇帝。父は定陶恭王・)。生母は丁姫。
3歳で元帝の第2子であった父・劉康が薨去し定陶王を継承した。祖母の傅氏(元帝の昭儀)と生母の丁氏が伯父・成帝の皇后である趙飛燕に賄賂を贈り、18歳の時に皇太子となった。前7年、成帝が崩御すると皇太后趙飛燕の後楯で19歳で即位した。
史書によれば哀帝は男色を好み、特に寵愛した董賢に惜しみなく財宝や称号を与え、紀元前2年(元寿元年)12月には大司馬に昇進させた。更に、董賢の妻や妹にまで特権を与えたのみならず、王閎に反対されて取りやめたものの董賢に禅譲しようとまでも考えていた。
亡父には「恭皇」を追諡、また養母に当たる皇太后趙氏、養祖母太皇太后王氏(王政君)とは別に、実母の丁氏に帝太后、実祖母の傅氏には皇太太后を追諡している。
政治面では、失敗に終わったが王侯や一般人が所有する田地や奴婢の制限を検討し、任子の令を廃止するなどの改革を計画した。また丞相を廃止し三公制へ移行し、後の新・後漢で実施された三公制の祖形を生み出している。また国勢の衰退を自覚し、自ら「陳聖劉太平皇帝」を称し天命を更新しようとしたが2ヶ月で元に戻している。
哀宗は即位後に王莽を罷免、丞相である朱博、王嘉を自殺させるなど臣下に対し厳しい態度で臨み、武帝・宣帝の手法を採用しようとしたが、前1年(元寿2年)6月、25歳で死去。嗣子が無かったために、崩御に際し皇帝璽綬を董賢に託したが、璽綬は太皇太后王氏、王莽らにより奪われ、政治の実権は王氏が再び掌握することとなった。なお璽綬を奪われた董賢とその妻はその日のうちに自殺した。
男色を意味する「断袖」という語は、董賢と一緒に寝ていた哀帝が、哀帝の衣の袖の上に寝ていた董賢を起こさないようにするため衣を切って起きた、という故事に基づく。
漢書哀帝紀の賛によれば、哀帝は下半身に障害があったようである。
家族 [編集]
后妃 [編集]
傅皇后(祖母傅氏の一族)
董昭儀(董賢の妹)
子女 [編集]
女子(傅皇后の娘。『漢書』王莽伝上に見える)
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